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『もののけ姫』が問いかける「命」の正体。現代人が忘れた「アニミズム」という視点

公開から四半世紀以上が経ってもなお、色褪せることのない宮崎駿監督の傑作『もののけ姫』。

キャッチコピーの「生きろ。」という言葉は、私たちの心に深く刻まれています。

しかし、大人になってから見返すと、この映画が単なる「自然保護」を訴える物語ではないことに気づかされます。

そこにあるのは、日本人が古くから持っていた「アニミズム(精霊信仰)」という世界観と、それを失いつつある現代への強烈な問いかけです。

今回は、そもそもなぜアニミズムが生まれたのかという人類史的な背景から『もののけ姫』を読み解き、私たちが「自然」や「他者」とどう向き合うべきかを考えます。

目次

そもそも「アニミズム」とは何か?

物語を紐解く前に、土台となる「アニミズム」について整理しておきましょう。

アニミズム(Animism)は、ラテン語で「魂・生命・息」を意味する「アニマ(Anima)」を語源としています。

簡単に言えば、「人間だけでなく、動物、草木、岩、山、川、風など、万物に『魂』や『精霊』が宿っている」とする考え方です。

日本では「八百万(やおよろず)の神」という言葉がまさにこれを表しています。

西洋的な価値観では「人間」と「それ以外(自然・物質)」を明確に分け、自然を人間が管理するものと捉えがちです。

しかしアニミズムの世界では、自然界のあらゆるものが人間と同じように意思を持ち、対等な「隣人」として存在します

『もののけ姫』は、まさにこのアニミズムの世界観が色濃く描かれた作品なのです。

なぜ人は「アニミズム」を生み出したのか?

映画の考察に入る前に、もう一歩だけ踏み込んでみましょう。

なぜ私たちの先祖は、木や石といった「物」に対して、自分たちと同じような「魂」を見出したのでしょうか?

それは単なる迷信ではなく、か弱い人間が過酷な自然界で生き残るための「生存戦略(サバイバル術)」でした。

1. 「勘違い」が生死を分けた

太古の昔、草むらがガサガサと揺れた時、原始人はどう考えたでしょうか。

  • A:「ただの風だろう」と考える(物理現象として捉える)
  • B:「敵(ライオンなど)がいるかもしれない!」と考える(意思ある存在として捉える)

Aの考え方では、もし本当にライオンだった場合、逃げ遅れて死んでしまいます。

一方、Bのように「そこに誰かの意思がある」と過敏に感じる人は、風だったとしても「勘違い」で済みますが、ライオンだった場合は生き残れます。

つまり、「物事の背後には必ず『意思』がある」と感じる脳の性質を持つ人間の方が、生存確率が高かったのです。

これが進化し、「風が吹くのは風の神の意志」「雷は神の怒り」という感覚へつながっていったと言われています。

2. 絶望しないための「交渉術」

また、科学のない時代、日照りや嵐といった自然の脅威はあまりに理不尽でした。 「ただの自然現象」相手では、人間は無力で絶望するしかありません。

しかし、そこに「神(人格)」を見出せば、希望が生まれます。

相手に心があるなら、祈り、踊り、供物を捧げることで「交渉(=取引)」ができるかもしれないからです。

アニミズムとは、孤独で無力な人間が、圧倒的な自然の中で「独り言」ではなく「対話」をするために生み出した、切実な知恵でした。

『もののけ姫』の冒頭で、アシタカが襲いくるタタリ神に対し、弓を構えながらも必死に言葉をかけ、対話を試みるシーンがあります。

あれはまさに、荒ぶる自然と「交渉」しようとするアニミズムの原点的な姿なのです。

3. 「仕組み(科学)」が分からない恐怖を埋めるため

現代の私たちは、病気になれば「ウイルスが原因だ」、嵐が来れば「気圧の変化だ」と、科学的な「仕組み(HOW)」で納得することができます。

しかし、科学のない時代、世界は「なぜそれが起きるのか分からないこと」で溢れていました。

原因不明の死、突然の天変地異。理由のない不幸は、人間にとって最大の恐怖です。

そこで人々は、科学の代わりに「意味(WHY)」を求めました。

  • 科学の視点: 「気圧が下がったから嵐になった」(物理現象)
  • アニミズムの視点: 「私たちが山を汚したから、山の神が怒った」(意味と文脈)

「わけも分からず死ぬ」よりも、「神の怒り」という理由があった方が、人は納得して死を受け入れたり、対策(祈りや清め)を打ったりすることができます。

アニミズムは、科学が解明していなかった世界の空白(ブラックボックス)を、「物語」で埋めて安心するための装置でもあったのです。

映画から学ぶアニミズムの本質

『もののけ姫』という作品の凄みは、このアニミズムの世界観を、現代的な視点(科学や技術の台頭)と衝突させることで、より鮮烈に描き出している点にあります。

1. 自然は「資源」ではなく「意思ある他者」

映画の中で、森の木々には「コダマ」が宿り、モロの君(犬神)や乙事主(猪神)は人語を解し、高い知性を持っています。

近代化された社会において、私たちは山や森を「資源」や「背景」として見がちです。

「ここを切り拓けばダムができる」「木材がこれだけ採れる」といった具合です。

しかし、この映画では自然が「意思ある他者」として描かれます。

彼らは痛みを感じ、怒り、人間と交渉し、時には復讐(タタリ)もします。

人間が自然を傷つけることは、単なる環境破壊ではなく、「他者の領域を侵犯し、相手を傷つける行為」なのです。

「自然を守ろう」という上から目線のスローガンではなく、「彼らとどう折り合いをつけるか」という、ヒリヒリするような緊張関係がそこにはあります。

2. 畏敬の念:神は「優しさ」と「恐ろしさ」を併せ持つ

アニミズムにおける神(自然)は、人間に恵みを与えるだけの優しい存在ではありません。

象徴的な存在である「シシ神」を思い出してください。

シシ神は、歩くたびに草木を芽吹かせ(生の付与)、同時に枯れさせます(死の招来)。

「シシ神は命を与えもし、奪いもする」

このセリフが示す通り、自然の本質は「生成と破壊」の繰り返しであり、人間の善悪の基準を超越した存在です。

アニミズムの根底にあるのは、この圧倒的な力に対する「畏れ(おそれ)」です。

コントロール不能な荒ぶる力があるからこそ、人は祈り、鎮めようとします。

それは愛玩の感情ではなく、生存本能に根ざした「敬意」なのです。

3. 「善悪」ではなく「清浄」と「穢れ」

物語の発端となる「タタリ神」や、アシタカが受ける「呪い」も重要な要素です。

ナゴの守(イノシシ神)は、本来は誇り高い山の神でした。

しかし、鉄のつぶてによる痛みと、人間への激しい憎しみに囚われた時、ドロドロの「タタリ神」へと変貌してしまいます。

ここで描かれるのは、「悪いやつが怪物になる」という単純な話ではありません。

「心の滞り」や「強すぎる憎悪」が、神聖なものを「穢れ(ケガレ)」へと変化させるという精神性です。

アシタカが度々口にする「曇りなき眼(まなこ)」とは、この穢れを祓い、偏見や憎しみを持たずに物事の「あるがまま」を見る姿勢を指します。

アニミズムにおいて最も重要なのは、善悪のジャッジではなく、清らかな循環の中に身を置くことなのです。

第四章:矛盾を抱えて生きる覚悟

『もののけ姫』が傑作である最大の理由は、「それでも人は、自然を奪わなければ生きていけない」という冷徹な現実(業)から逃げていない点にあります。

エボシ御前率いるタタラ場の人々は、森を破壊しますが、それは社会的に弱い立場にある人々が生きていくための切実な営みです。

一方、自然と共に生きるアシタカの村の人々も、生き物の命を奪って食べています。

しかし彼らには、命を奪うことへの「儀礼」と「痛み」の自覚があります。

アニミズムが教えてくれるのは、「自然に指一本触れるな」という極論ではありません。

「生きるためには他の命を犠牲にせざるを得ない。その罪悪感と痛みを自覚し、感謝と畏れを持って世界と向き合うこと」です。

一本の草に込めた祈り

映画のラスト、シシ神は消滅し、世界から「神話的な魔法」は失われます。

しかし、荒廃した土地には一本の草が芽吹きます。

それは、わかりやすいハッピーエンドではありません。

人間と自然の対立はこれからも続くでしょう。

しかし、アシタカとサンが「共に生きよう」と誓ったように、矛盾を抱え、間違いを犯しながらも、私たちはこの世界で生きていかなければなりません。

『もののけ姫』のアニミズム的な視点は、現代を生きる私たちにこう問いかけています。

「あなたは、自分が奪っている命の重さを知っていますか?」 「その上でなお、この世界を肯定し、生きていく覚悟はありますか?」

自然災害や環境問題、あるいは疫病など、人間にはコントロールできない大きな力に直面した時こそ、この映画が示す「畏敬」と「覚悟」の哲学は、私たちの道標になるはずです。

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