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「言語化が上手い人」は、言葉を知っている人ではない

頭がいいと言われる人の特徴として、しばしば「言語化が得意」であることが挙げられる。社会に出たときに最も必要とされるスキルはコミュニケーションだが、言語化はその中核をなす要素の一つだ。

では、言語化が上手いとはどういうことか。語彙が多いことか、話し方が滑らかなことか。結論から言えば、どちらも本質ではない。

この記事は、言語化について書いている。だが実のところ、主役は言語化ではない。最後まで読むと、もう一つの言葉が主役だったことに気づくはずだ。

その正体に近づくために、まず言語化の土台になっている「認知」の話から始めたい。

目次

なぜ認知の話をするのか

なぜ、言語化の話をするのに認知の話から始めるのか。理由は単純だ。人は、目の前の出来事をそのまま受け取っているのではなく、認知というフィルターを通してしか世界を扱えないからである。

同じ出来事でも、認知が違えば、そこから出てくる言葉はまったく違うものになる。ちょっと面白い例がある。英語の little と a little だ。little water は「ほとんど水がない」というほぼ絶望的な響きになるが、a という一文字がつくだけで、a little water は「少しだけ水がある」という、わりと前向きな響きに変わる。おもしろいのは、指している水の量はほぼ同じだということだ。コップに残った同じ水を見て、「もうない」と捉えるか「まだある」と捉えるかは、水の量そのものが決めているのではない。認知が先に立って、その認知に合う言葉が選ばれているだけだ。

たった一文字の a があるかないかで、同じ現実がまるで逆の意味を持つ。英語の豆知識のようでいて、これは言語化の本質そのものを言い当てている。人は出来事をそのまま言葉にしているのではなく、認知というフィルターを通した「解釈」を言葉にしている。フィルターが変われば、同じ現実からまったく違う言葉が出てくる。

つまり言葉は、出来事そのものに貼るラベルではない。認知というフィルターを通過したあとの、自分固有の捉え方に貼るラベルである。だから言語化のつまずきは、語彙不足ではなく、認知のどこかでつまずいているだけだ。その「どこか」が具体的にどこを指すのかは、この後見ていく6段階のプロセスの中で、一つずつはっきりしてくる。

だとすれば、言語化が上手い・下手を「ボキャブラリーの量」で語るのは筋が悪い。見るべきは、捉えてから言葉になるまでの間に何が起きているか、というプロセスの方である。

言語化とは何か

言語化とは、曖昧な感覚や考えを整理し、自分が扱える形にすることである。

この一言だけを聞くと、単なる「表現力」の話に思えるかもしれない。だが実際の言語化は、もっと構造的なプロセスを経ている。知覚がどう意味に変わり、意味がどう行動に変わるか——認知科学が扱ってきたこの流れを、言語化という一つの営みに沿って並べ直すと、次のようになる。

感じる → 違いに気づく → 名前をつける → 関係を整理する → 自分の経験と結びつける → 自分ならどうするかに落とし込む

たとえば、こんな些細な瞬間にも、この6段階は動いている。

朝、鏡の前で服を選んでいて、なんとなく「あれ、なんか違うな」と思う(感じる)。よく見ると、シャツとパンツの色のトーンが合っていない(違いに気づく)。「色のトーンが合っていない」と、その違和感に名前がつく(名前をつける)。そういえば前にもこの組み合わせで、ちぐはぐな印象になった日があったなと思い出す(関係を整理する→自分の経験と結びつける)。次からはトーンを合わせて選ぼう、と決める(自分ならどうするかに落とし込む)。

たった数秒の出来事だが、感じてから行動に落ちるまでに、この6段階をすべて通過している。

この6段階は、大きく3つのフェーズに圧縮できる。「何が起きたかを捉える」段階、「それが何を意味するかを掴む」段階、「次にどうするかを決める」段階——この3つの働きの違いでグルーピングすると、次のようになる。

  1. 知覚フェーズ(感じる → 違いに気づく → 名前をつける):目の前で起きたことを捉える段階
  2. 意味化フェーズ(関係を整理する → 自分の経験と結びつける):抽象化し、自分ごとに接続する段階
  3. 出力フェーズ(自分ならどうするかに落とし込む):次の行動へ変換する段階

ここで、一つ補足しておきたい。知覚フェーズの「名前をつける」と、意味化フェーズの「関係を整理する→自分の経験と結びつける」は、どちらも”解釈”には違いない。名前をつける瞬間にも、すでに「これっぽい」という照合が起きている以上、解釈がゼロということはない。両者を分けているのは、解釈の有無ではなく、解釈の速さとコストである。「名前をつける」は、既存の引き出しと瞬時に照合して候補が上がる、直感的で自動的な解釈だ。一方「関係を整理する→自分の経験と結びつける」は、「なぜそう感じたのか」「自分のどの経験とつながるのか」を、時間をかけて能動的に組み立て直す、労力のかかる解釈である。心理学で言う二重過程理論(速く自動的なシステム1と、遅く意図的なシステム2)に近い区別だと考えると分かりやすい。

似た構造は、リスニングの領域にもある。第二言語習得研究では、リスニングは「音声知覚」(聞こえてきた音がどんな音かを認識する処理)と「意味理解」(その音を自分の知識や記憶と照合し、意味を組み立てる処理)の2段階で説明される。そして、音は聴けているのに内容を聞かれると答えられない、という状態がよく起きる。これは音声知覚に意識のリソースを取られすぎていて、意味理解に割く余力が残っていないために起こる。シャドーイングなどの訓練で音声知覚を自動化すると、初めて意味理解にリソースを回せるようになる。

これは、知覚フェーズと意味化フェーズの関係とまったく同じ構造だ。「名前をつける」という処理が自動化されていないと、そこにリソースを食われて、その先の意味づけまで手が回らない。本を読んで「わかった気になる」のに、後から内容を聞かれると答えられない、という状態も、実はこれに近い。言葉の表面は知覚できているのに、それを自分の文脈に照らして意味理解するところまで、リソースが届いていない。聴けているのに聞き取れていないのと、読めているのに理解できていないのは、同じ理由で起きている。

この3フェーズのうち、最初の一歩に注目してほしい。「感じる」の次に来るのは「違いに気づく」だ。何かが、いつもと違う。何かが、しっくりこない。ここでつまずくと、名前をつける段階にも、その先の自分ごと化にも進めない。つまり「違いに気づく」瞬間こそが、言語化という長いプロセス全体の起点であり、ここから先は、この一点を掘り下げる。

「違いを作る違い」という定義

掘り下げる手がかりは、意外なところにある。「違い」という言葉そのものだ。英語には make a difference という表現がある。直訳すれば「違いを作る」だが、実際にはこの言い回しは「重要である」という意味で使われる。一見無関係に見えるこの二つの意味——「違いを作ること」と「重要であること」——は、実は同じ現象を指している可能性がある。

この可能性を、情報そのものの定義にまで押し広げた人物がいる。人類学者・サイバネティクス研究者のグレゴリー・ベイトソンだ。1979年の著書『精神と自然』で、彼は情報とは「差異を生む差異(a difference that makes a difference)」であると定義した。よく見ると、このベイトソンの定義の中には、先ほどの make a difference がそのまま埋め込まれている。「ただの違い」と「違いを作る違い(=重要な違い)」を分けたことこそが、この定義の要点だ。

たとえば体温計の数字が0.1度動いても、それだけでは何も起きない。だがその0.1度の変化が「病院に行こう」という行動につながるなら、そのときだけ、それは情報になる。

ここでポイントがある。同じ場所に、同じ時間にいても、気づく人と気づかない人がいる。違いは、目の前に転がっているものではなく、それを拾い上げる側に「違いを見つける仕組み」があって初めて、違いとして立ち上がる。ベイトソンが好んで使った例え話がある。ハエは人間には見向きもせず、甘いものの方へ飛んでいく。ハエにとって、人間の存在は「違い」ではない。甘さだけが、ハエの記憶や経験に基づいて意味を持つ「違い」として選び取られる。

このハエの選び方は、人間にとっても他人事ではない。前のセクションで見た「名前をつける」の自動性、あるいはリスニングの「音声知覚」の自動性と、根っこは同じだ。ハエが甘さだけを瞬時に選び取るように、人間も、無数の違いの中から「これは自分に関係がありそうだ」と感じるものだけを、直感的に拾い上げている。関係なさそうな違いは、気づかれもせず流れていく。

言語化の入り口にある「違いに気づく」が、ただの観察で終わらず次のステップへの起点になるのは、このためだ。そこで気づかれる違いは、すでに「自分に関係がありそうだ」と一次選抜された違いだからである。

言葉を並べただけでは、具体から抽象を取り出し、それをまた具体に戻すという一連の流れは起きない。実例で見ていく。

具体例:「自己啓発書を読んで、わかった気になる」

自己啓発書を読むと「なるほど」と腹落ちする。だが1週間後、何も変わっていない自分に気づく——多くの人が経験する”あるある”だ。

読んでいる間は納得していたのに、行動は何も変わらなかった(具体)。わかった気になるのは、理解したからではなく、自分ごと化できていないからだ(抽象)。自分も本を読んで満足し、自分の状況に当てはめて考える手前で止まっていたかもしれない(自分ごと化)。次からは、本を閉じる前に「これは自分のどの場面に当てはまるか」を具体的に一つ書き出す(具体・行動)。

なぜ「わかった気になる」が起きるのか。自己啓発書の主張は、多くの場合、一般化された正しさとして書かれている。「行動しろ」「小さく始めろ」「習慣にしろ」——どれも反論しようがないほど正しい。だからこそ、読んでいる間は脳が「その通りだ」という納得の信号を出す。だがこの納得は、著者の経験や一般論に対する納得であって、自分の状況に対する納得ではない。「行動しろ」という言葉が、自分の生活の中のどの場面で、何をどう変えることを意味するのかまでは、まだ何も処理されていない。腹落ちした感覚と、実際に理解した状態がずれるのは、このためだ。

ここで一度、立ち止まりたい。「自己啓発書はわかった気になるだけで終わる」というのは、多くの人がすでに知っている”あるある”であり、それ自体は目新しい発見ではない。だが、その”あるある”を「じゃあ何が原因なのか」と問い直し、「自分ごと化できていないからだ」と名前をつけた瞬間——それこそが「感じる → 違いに気づく → 名前をつける」という言語化のプロセスそのものである。つまり今ここでやっていることは、言語化について説明しながら、その説明自体が言語化を実演していることになる。

ここでも起きているのは、単なる「読み方が悪い」という指摘ではない。具体から抽象を抜き出し、それを自分に引き寄せ、また具体(行動)へ戻すという一往復である。この往復がなければ、言語化はただの読書感想で終わる。

だが、この一連の流れは、そもそもどこから始まったのか。「なんとなく腹落ちしたのに、何も変わっていない」——このズレに、誰かが気づいた瞬間からだ。

抽象化と具体化、それぞれのメリット・デメリット

ここまでの往復運動を支えているのは、「抽象化」と「具体化」という二つの操作である。この二つは、性質も、得意なことも、苦手なことも対照的だ。

抽象化のメリット 個別の出来事から、繰り返し使える「型」(先ほどの言葉で言えば「本質」)を取り出せる。「わかった気になるのは、理解したからではなく、自分ごと化できていないからだ」という一文も、一度この形で取り出しておけば、自己啓発書に限らず、研修でも、他人からのアドバイスでも、同じ構造として認識できるようになる。個別事象の数だけ経験を積み直す必要がなく、少ない経験から広い範囲に効く「型」を先に持てるのが、抽象化の強みだ。

ただし、この型を持っているだけでは、まだ何も使ったことにはならない。型を、目の前の別の具体に当てはめ直して初めて「応用できた」と言える。つまり「応用が利く」は抽象化だけで完結する能力ではなく、抽象化で取り出した型を、もう一度具体化して使う——という往復が起きて初めて成立する能力である。抽象化が持つのは、応用の”材料”であって、応用そのものではない。

抽象化のデメリット 抽象度を上げるほど、当事者感覚が薄れる。先ほど自己啓発書の例で見た通り、「行動しろ」「小さく始めろ」といった教えが正しいがゆえに誰にも刺さらないのは、この性質のせいだった。正しさと汎用性はセットになっている一方で、自分の状況への刺さり方は反比例していく。抽象化だけで止まると、正しいけれど自分ごとにならない言葉が、ただ積み上がっていく。

具体化のメリット 自分の状況に即した行動に直結しやすい。「本を閉じる前に『これは自分のどの場面に当てはまるか』を書き出す」のような具体策は、迷わず今日から実行できる。行動との距離が近く、実践のハードルが低い。

具体化のデメリット 個別の事例に依存するため、そのままでは型として持ち出せない。ある場面で有効だった行動が、少し状況が変わっただけで通用しなくなることがある。具体だけを積み重ねても、次に似て非なる状況に出会ったとき、また一から考え直すことになる。

つまり抽象化は「型を作れるが、そのままでは刺さらない」、具体化は「刺さるが、型として持ち出せない」という、互いの弱点を補い合う関係にある。応用とは、この二つが往復して初めて成立するものであり、どちらか一方だけでは起きない。だからこそ、言語化のプロセスは抽象化だけでも、具体化だけでも成立しない。具体→抽象→自分ごと化→具体(行動)という往復そのものが、両者の弱点を打ち消し合う設計になっているのだ。「自己啓発書を読んで、わかった気になる」の例が示していたのは、まさにこの往復が途中で止まってしまった状態——抽象化までは辿り着いたのに、自分ごと化を経て具体(行動)へ戻る手前で力尽きている状態だった。

では、なぜある人はこの往復を最後まで走りきり、ある人は途中で止まってしまうのか。

一見、答えはこう見える。言語化が上手い人とは、言葉をたくさん知っている人ではなく、目の前の具体から本質を抜き出し、それを自分の経験と結びつけ、次に使える具体的な行動へ戻せる人だ、と。

これは間違っていない。ただ、これだけでは足りない一段がある。

本当の主役は「違和感」だった

言語化が上手いと言われる人に共通しているのは、実はこの往復を”うまくこなす技術”ではない。往復を最後まで走らせるかどうかを決めているのは、もっと手前にある。違和感を覚える経験や感情を持ったときに、それを見過ごさず、その現象を解こうとする姿勢である。「なんとなくモヤモヤする」で終わらせず、「このモヤモヤは何が起きているから生まれたのか」を問い直す。

違和感は、言語化プロセスの入り口にある「感じる」「違いに気づく」の段階そのものだ。つまり違和感とは、言語化が始まる前のノイズではなく、言語化という営みの発火点である。この記事がここまで扱ってきた「6段階のプロセス」も、「具体・抽象・自分ごと化の往復」も、すべては一つの違和感を出発点にした軌跡にすぎない。

実際、先ほどの自己啓発書の例で起きていたことも、それだった。「わかった気になるだけで終わる」という”あるある”を、そのまま流さずに「じゃあ何が原因なのか」と問い直した瞬間——あの一瞬こそが違和感の発火であり、この記事自体、言語化を説明しながら、その説明を違和感から言語化へのプロセスとして実演していたことになる。

言い換えれば、言語化力とは語彙力ではない。違和感を放置しない態度と、具体・抽象・自分ごとを往復させる思考の型である。そしてその態度を支えているのは、語彙でも論理力でもなく、「違和感を違和感のまま流さない」という一点に尽きる。

言語化が上手い人を育てたいなら、言葉の使い方を教えるより先に、違和感を握りしめる練習をさせたほうがいい。

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